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新しい記事を書く事で広告が消せます。 梅原ゆきが駅の喫煙所に現れるようになったのは今からひと月ほど前のことだ。
その朝、気がつくと常連愛煙家たちの後ろにみかけない若い女がひっそりと佇んでいた。
くたっとしたボタンダウンのシャツやキャンバス地のトートバッグが妙にさまになる女だった。女はそれが朝の儀式かなにかのように軽く目をつむりじつにうまそうに煙草を吹かした。
意外だったのは女がオレと同じ銘柄の煙草を吸っていたことだ。
そしてこのときからオレはゆきに対してある種の、そう、いわば煙のようにはかない友情を感じていたのかもしれない。
先週、あることがきっかけで生涯初の禁煙を決意したとき、オレがまっさきに思い浮かべたのは喫煙所に立つゆきの姿だった。そして手元に残った買い置き煙草をみてこう思った。
そうだ。この煙草はあの娘にあげよう。いや、むしろ彼女に吸ってもらうべきだ、と。
なにしろ三十年以上も苦楽をともにしてきた煙草と別れるのだ。ゆきと込みで少々派手にさよならしてやろう。そう思った。
翌朝、オレは駅の喫煙所に向かい、そこで押しつけるようにして用無しになった煙草二つをゆきに渡した。
ところがなまじ感傷的な別れ方をしたせいで、オレの禁煙はおかしな方向に進み始めた。
それから三日後の夕刻、駅を降りたオレにゆきの方からこう声をかけてきたのだ。
「禁煙、続いてますか?」
面食らったオレが、毎晩煙草を吸う夢をみてる、とか、でも食事はうまくなった、とか月並みな受け答えをしていると、ゆきはまじまじとオレをみつめ、
「なんか喉渇いちゃった。よかったらビールでも呑んできません?」
そういって照れくさそうに笑ったのである。
そんなわけでオレは今、駅の近くの焼き鳥屋にいる。目の前でゆきがうまそうにビールを呑んでいる。オレはいくぶん舞い上がってそれをみている。
ゆきはひと月まえ、勤めていた大手文具メーカーを辞め、この街に越してきたらしい。歳は二十三才。今は派遣の事務の仕事で食いつないでいるのだという。
「よくわたしが同じ煙草吸ってたってわかりましたね」
オレの素性はゆきに明かしていない。話したのは鳴海次郎という名前と四十三才という年齢と羽田裏で小さな町工場を営んでいるということだけ。それ以上を話すと若い女が困ってしまう。オレはそういう因果な製品を扱っている。
「ケースに入れて吸ってると、銘柄までわからないでしょ?」
ステンレス製の煙草ケースから煙草を抜き取ってゆきはいった。
「匂いですぐにわかりましたよ」
「あ、そうか。全然違いますもんね」
「珍しいなと思ったんです。女で、しかもあなたみたいに若い人が両切りのピースを吸ってるなんて」
そう。オレたちが吸っていたのは両切りのピース。濃紺の缶に詰められた通称ピーカン。自販機ではまず売っていない絶滅危惧種の煙草だった。
「やっぱり女でピーカン吸ってるなんておかしいでしょうか?」
「とんでもない。仲間に出会えたみたいで嬉しかったですよ。わたし、両切りのピースが国産で、いや、もしかしたら世界で一番うまい煙草だと思ってるから」
希少種になったとはいえピースが煙草の名品であることに変わりはない。オレはピースに刻まれたバージニア葉のストレートな香りを絶賛した。
「だったらなぜ裏切ったの?」
「裏切る?」
ゆきは煙草に火をつけ、怒ったような、諌めるような口調でいった。
「せっかく仲間になれたのに、なぜ煙草をやめたんですか?」
従業員の要望で職場が全面禁煙になって、だから……。
オレは言葉をにごしてジョッキを口に運んだ。禁煙した本当の理由は、懇意にしていた取次ぎ先の仕事仲間が肺癌であっという間に死んでしまったからだ。だが、ゆきと話しているうち、たかが寿命を延ばすために大好きだったピースをやめたことが段々後ろめたくなってきた。それにまだきっぱりケジメもついていない。今もゆきの吐き出す煙のニコチンやタールをつかみ取ろうと、身体の奥から無数の触手が飛び出してきそうだった。
「わたしはやめたいなんて思ったことないな」
ゆきはサラサラした短い髪をかきあげ、だっておいしいんだもの、と呟くようにいって黙った。
こうして間近からみるゆきはじつに目に優しい女だった。藍色のTシャツにほどよく色落ちしたジーンズ姿。ノーメイクなのに唇は鮮やかなピンク色で、所々に光の点が宿っている。あどけなく丸みを帯びた鼻。小さい顔。煙草は肌によくないはずなのに、ツルツルした肌はまるで茹で卵のようだ。
「鳴海さんは工場で、なにを作っているんですか?」
こういう質問にはいつも、自動車のエンジン部品、と答えることにしている。よほどの車好きでない限り質問はそれで終わる。だが、なぜだろう。オレはそうしなかった。
「ちょっと人にはいえない製品を扱ってるんです」
ゆきがさも興味を引くようにこうほのめかした。
「なんですか、それ?」
「当ててください」
「下着? 女物の?」
「そんなんだったら大いばりで人にいえる」
「じゃ覚醒剤とか」
「合法的な製品です。一応」
「工業用ロボット。企業秘密の」
「うーん。機械は機械なんだけどもう少し単純かなあ」
なにをいわれてもニヤニヤしながら、秘密です、とはぐらかしていると、ちょっとなんですか? もう、とさすがにゆきもイラ立ち始めた。
「だっていったら引くもの」
「引かない。そこまでいっといてずるい」
ゆきは煙草を消して身を乗り出し、オレの間近に顔を寄せていった。
「教えてくれたらわたしの秘密も教えますから」
今度は煙草ではなく柑橘系の甘い匂いがオレの鼻先をかすめた。おそらくこのあたりからオレとゆきの形勢は微妙に逆転し始めていたのだと思う。
「すっごい恥ずかしい秘密、今までにたった一人の男の人にしか教えていない秘密」
「うそ」
「ほんとです。だから教えて」
「アダルト・グッズ、とくにバイブなんかをこさえてるんです」
あっさりそう告白すると、ゆきはポカンと口を半開きにしてオレをみつめた。
そうなのだ。オレは「夜泣き屋」という屋号の、性玩具、つまり大人のおもちゃの製造業者なのである。本来、見ず知らずの人間に絶対素性は明かさない。そういう噂が広まると妻も子もいる従業員たちが困るからなのだが、
「わあ、おもしろーい。そういう人と知り合ったの初めて。アレ、どんな風に作ってるんですか?」
ゆきからキラキラした瞳で聞かれると、もうオレの話は止まらなくなっていた。禁煙のせいでなにかを我慢する力がすり減っていたのかもしれない。オレはバイブの基本構造から、いままで手がけてきた商品の紹介。笑える失敗作。さらに江戸「四つ目屋」に始まる日本の性玩具店の発祥から、電動コケシに至る近代史までベラベラとしゃべりまくり、ふと我に返った。
「それで、あなたの秘密は?」
「すみません」
ゆきは再び煙草に火をつけていった。
「ここでは教えられない秘密なんです」
なんだよ。からかいやがって。話して損した。オレが内心舌打ちしながらジョッキに手を伸ばすと、ゆきはコースターの裏に自分の住所を走り書きし、紫煙の向こうで不思議な笑みを浮かべていった。
知りたければ、明日、わたしの部屋にきてください、と。
どんな秘密かは知らないが、あんなに若くて綺麗な女が一度酒を飲み交わしただけの中年男を、ましてやバイブ製造業者を簡単に自分の部屋に招くはずがない。きっと宗教団体へのお誘いだ。いや、浄水器とか自然食とか怪しい新商法に巻き込もうって腹かもしれない。
翌日の日曜日、オレはなにが起きても落胆しないよう思いつく最悪の状況を想定しながら例のコースターを手にゆきの部屋に向かっていた。
ゆきの住むマンションは駅からバスで二つ目の停留所のすぐ近くだった。
部屋の前に立つと急に気弱になり、ここで帰ろうかとも思ったのだが、右手はしっかりとチャイムを押していた。
「いらっしゃい」
ドアが開くと同時に石鹸の匂いがオレを包んだ。現れたゆきは「無印良品」とかで売っていそうな生成りのワンピース姿で、風呂上りなのだろう、まだ髪は濡れたままだった。中年男を招き入れるにしてはあまりに無防備だった。
美人局(つつもたせ)か。咄嗟にそう思ったにもかかわらずオレはゆきに案内されるがままあれよあれよという間に奥の部屋に通され、コーヒーにしますか? 紅茶? あ、それともビールにします? と聞かれて、
「あ、コーヒーお願いします」
とにこやかに答えていた。
部屋は広めのワンルームで、床の中央にポツンとスチール缶の灰皿が置かれている。壁際にはまだ段ボールが積まれたままで、全体に荒涼とした感じが漂っていた。レース越しの日差しが差し込んだ窓際のベッドだけが唯一ポカポカと暖かそうにみえる。
やがてコーヒーを用意したゆき入って来て、トレイを床に置くと、煙草に火をつけていった。
「殺伐としてるでしょ?」
ゆきはこのマンションに越してきたことを、まだ知人の誰にも知らせていないらしい。
OLをしてた頃、付き合っていた男と別れ話でもつれ、その男がストーカー行為をくり返すようになり、身の危険を感じて会社を辞め、転がり込むようにしてここに住み始めたのだという。
オレは必死に禁断症状を抑えながらいった。
「その彼なんですか?」
「なにが」
「あなたの秘密を知っているたった一人の男って」
ゆきは、そう、と淋しそうに笑い、あんな男性に教えたのが間違いだったんです、と独り言のようにいって煙草を丁寧に揉み消し、オレの目にピントを合わせた。
「みていただけます? わたしの秘密?」
そういうとオレの返事も聞かずに立ち上がり、壁際の段ボールのひとつから、ごっつい手錠を取り出していった。
「申し訳ありませんが、そのまえに、これ、していただけますか?」
ちょっと待ってください、咄嗟に美人局のことを思い出し、オレは慌てて後ずさったのだが、
「変な心配しないで」
ゆきに苦笑していわれると、なぜだろう、あやつられるように両手を差し出していた。ゆきはベッドのパイプに手錠を回し、鎖の分しか動けないようにオレを繋げると、オレに背中を向けてワンピースを肩からバサっと床に落とした。
オレは息を呑んだ。
ゆきは全裸だった。
顔の皮膚同様、白くきめ細かな肌に、レース越しの日差しが映っている。背中や腰、尻とふとももに柔らかい光の濃淡が刻まれていた。
中空に浮かんだ幻のようなその裸体が、ゆっくりとした動きでベッドに腰を下ろした。そのときゆきの喉がゴクリと動き、ゆきも緊張しているのだとわかった。
「みてください」
ゆきはそういってオレに向かって脚をM字型に開いていった。さらに尻をずらしながら背中を倒し、オレの眼まえで股間をむき出しにした。
これがわたしの秘密です、くぐもった声でゆきはいった。
オレがくるまえに剃刀でも当てていたのだろうか。恥丘には産毛さえもなく、ほっぺたと同じように白くツルリとしていた。だが、問題はその中心だった。
なぜ、わたしにみせようなんて思ったんです、まじろぎもせずオレはいった。
勇気が欲しいんです、とゆきは答えた。
「勇気?」
「ええ。今までここをみせたことのある人は一人だけ。わたし、今日までその人としかセックスしたことがないんです」
「その彼はここをみてなんとおっしゃったのですか?」
「こんなもの、みたことがないって……」
おまえの肌が綺麗なのはきっと身体中のしみやホクロ、しわとかたるみとか、みにくいものを全部この一ヶ所に集めているからだ。ここには普段おまえが隠しているはしたなさが全部詰め込まれているんだって。
オレはその男の指摘に感心した。確かにそんな気がする。
「ひどい人でした。ひどい人とひどい別れ方をして、それから新しい恋愛に踏み込むことができなくなってしまったんです。人を好きになれないんです。好きになった人にここをみせるのが恐くて恐くて仕方がないんです」
そうしてゆきが訴えている間も、オレは一センチでも近くからそこをみようと必死に手錠でベッドのパイプを引っ張っていた。
「他の男の人はいったいどう感じるのか知りたいのです。でもそんなこと好きになった人には頼めないでしょう?」
それを頼まれ、今こうしてもがいているオレはいったいなんなのだろう。
「だから夜泣き屋さんのようにわたしとは縁もゆかりもないプロの方にみていただいて、的確で客観的な感想を述べていただきたいと思ったんです」
「しかし感想っていったって、そんなこと……」
「いいんです。正直におっしゃってください」
じっと目をつむり顔を真っ赤に染めたゆきの顔は、不思議なことに普段よりずっと息づいてみえた。目のまえの性器が同じ女に備わった部位だとはどうしても思えない。
なにかいってください、うめくようにゆきはいった。
「正直いって驚きました……」
やっぱり、と絶句したゆきが脚を閉じるとオレは思わず、だめだ、と叫んでいた。
「お願いです。もう少し観察させてください。仕事柄、さまざまな女性の持ち物をおがんできましたが、あなたのような形状は初めてです。このように珍しい持ち物は次いつみられるかわからない。いや、もう一生みられないかもしれない。恥ずかしいのはわかるが、わたしのためにもう少し耐えてください!」
オレの愚かな願いが通じたのかゆきの脚がためらいがちに開き始め、グッと首を伸ばすと景気のいい音を立ててオレの首の骨が鳴った。
それにしてもなんと醜怪な女性器なのだろう。
この女の小陰唇は半端じゃない。シェープされた禁欲的な下腹から、怠惰のきわみのようなひだがだらしなく垂れ落ちている。縮緬(ちりめん)皺(じわ)が寄った生々しくブ厚い唇が折り重なった状態で外性器から五、六センチは露出していた。
まるでバカでかい鶏頭の花が咲いてるみたいだ。
オレが思わず洩らすと、ゆきの脚の筋がピクッと震えた。
だが、ゆきはもう脚を閉じようとはしなかった。いいから正直におっしゃってください、と身体中の筋肉を固く緊張させていった。
この印象をいったいどう例えたらいいのだろう。
溶け出した生ゴム。あるいはブルドッグの口。いや、壁に叩きつけられひしゃげた生肉といえばいいのか。ゆきの肌が白くてツルツルなだけに露出したひだとのコントラストが異様に生々しくみえてしまう。それに肉同士が複雑に入り組んでいるせいで、どこがどの部位に当たるのかよくわからない。
「あの、すみません。もっと限界まで脚を開いてみてもらえませんか?」
ゆきは必死になって恥ずかしさと戦っていた。詰めていた息を、はあ、と吐き出し抱えた膝を左右に開いた。
「もっともっともっと、もっと開いて」
オレは気づかいも忘れて怒鳴っていた。
「もっと、恥骨で中の肉を押し出すようにして!」
「これ以上は無理です!」
ゆきは眉間にしわを寄せ、ブルブル震えながら叫んだ。
「不思議だ」
「……どういうことですか?」
「あなた、もしかしたら濡れ始めてませんか?」
「濡れてなんかいません!」
「しかし、ここまで脚を開いているというのに、ひだはピタっと貝のように密着している。こんなことはあり得ない。これはきっと滲んだ愛液が、接着剤みたいにひだ同士を貼りつけているんだ……」
違います、顔にびっしょりと汗を浮かべゆきはいった。
ひだの上部、合わせ目の部分に余った肉が集中しており、どこがクリトリスの包皮に当たる部分で、どこが小陰唇の根元であるのか判然としない。ただ、肉同士がよじれ合い、やけに大きくふくれている。
「ご自分でクリトリスは大きい方だと思いますか?」
「そんなこと……人と比べたことないからわかりません……!」
「オナニーするときわかるでしょう? このふくれ方から想像するに、軽くそら豆くらいの大きさはある気がするんですが……」
オレの言葉に反応したように、残酷な深い溝からジワーっと愛液が滲んでくる。愛液はごっつい樹皮から滲みだした樹液みたいにキラキラと甘そうに光っていた。オレは今すぐにでも音を立てて吸いたかったのだが、そこまで口が届かない。
「オナニーはしてるんでしょ?」
ゆきがさらに顔を真っ赤にして、します、と答えると今度はたっぷりと樹液があふれ、よれ曲がった小陰唇の溝を伝いシーツに小さな染みを作った。
「そのときオルガスムスには達しますか?」
「いいえ。セックス以外でそういう感じになったことはありません……」
ということは別れたひどい男にいかされてたってことなんだろうか。手錠があるってことはその男とSMプレイでもしてたんだろうか。
なんとなく辻褄が合わない気がしてオレが顔をあげると、ゆきは夢から醒めたように起き上がり、
「夜泣き屋さん」
と妙に鮮やかな声でいった。
「やはり男の人はここがこんなに醜いと興ざめしますか?」
「いや、そんなことはない」
「本当のことをいってください。わたし、整形手術を受けようかと考えてるんです。でも手術を受けるのも恥ずかしくて。もうどうしていいかわからない。気持ち悪いっていって下さい! 手術をしろって! そうすれば覚悟が決まりますから!」
「病院なんか行っちゃだめだ!」
異様なものをみると意外な本心が飛び出すものらしい。オレは必死にこう叫んでいた。
「確かにあんたの持ち物は醜い。異様だ。最初はびっくりする。だけど、それだけじゃないんだ。あんたは顔も童顔だし、肌も白くて綺麗だ。そんなあんたにこんなにグニャグニャで気味の悪いものがはさまっている。それがすごくいいんだ!」
「けなしているんですか。なぐさめてるんですか!」
「けなして褒めてるんだ。自分でもわからない。それが興奮するんだ!」
ゆきはわずかに首をかしげ、興奮? と呟くようにいった。なんだかオレの急所をつかんだような言い方だった。
「夜泣き屋さん、こんなに変なものみて興奮してたの?」
「だから、今、お話しした通りです……」
「だったら今、勃起してます?」
ええ、とか、いや、とかオレが口ごもっていると、
「証拠をみせてください」
ゆきは凄みのある顔で迫ってきた。
「わたしは剥き出しにしてみせたのよ。なに恥ずかしがってるのよ。みせなさいよ」
なにか間違ってるような気がしたが逆らえなかった。事実、ゆきは素っ裸になってオレに身体の奥の奥までさらしたのだ。仕方なくもたもたとズボンを下ろしトランクスを脱ぐと、ゆきは目を細めてオレを確認した。
「なによ。やっぱり全然勃ってないじゃない。うそつき!」
「それは違う!」
もう充分かっこ悪いというのに、オレはさらに無様な弁明を重ねた。
「間近でみてるときはカチカチだったんです。なのにあんたが手術をするなんていうから萎んじゃったんだ!」
「ほんとに?」
「ほら、みてください。先っぽが濡れてるでしょ」
「だったらあそこをみせたらまた勃つ?」
「勃ちます。絶対に勃つ!」
気がつくとオレは必勝を誓う野球少年のように胸を張って答えていた。
ゆきはフッと失笑して、さっきよりオレとの距離をほんの少しだけ詰めて再び大きく脚を開いた。
「オナニーするときはこうするの」
ゆきの細い中指と人差し指がひだの結び目をとらえると、口の中にみるみる唾液がたまった。
「夜泣き屋さんはこのふくらみが気になるんでしょ」
よくみててね、ゆきがそういって指を動かし始める。
密着していたひだとひだがぴっと舌打ちしたような音をたててはがれ、その奥に内包した愛液がトロンと流れ落ちた。指は生々しくブ厚い肉に埋もれて見え隠れしている。肉のせいで指の動きがより複雑で猥褻にみえた。あ、ああ、ほら、みて、クリトリスには直接は触れないの。喘ぎながらいうゆきの言葉がさらにオレを激しく興奮させた。
ここの肉が厚過ぎてね。あ。なかなか指が届かないの。まえの彼からは、おまえは筋金入りの包茎だといわれてたわ。あ、ああ。だから舐めるのがたいへんだって。
まえの男はいったいここをどんな風に舐めていたのだろう。ここを舐めたらどんな味がするのだろう。このブヨブヨした肉の触感はどんな感じなのだろう。オレはまえの男に嫉妬し、痛いほど勃起していた。
あ、あん、ああ、ああ。ゆきの指は肉の中のしこりを押しつぶすようにして動いている。ヌラヌラと濡れて光るひだがひきつれめくり上がった。ゆきはクリトリスには直接指で触れたことがないといった。オレは、その指紋ひとつない生まれたての真珠のようなクリトリスを確認したくて目を皿のようにして探したが、やはり包皮が邪魔でみつかない。ひだはゆきの指にあやつられ奇妙な軟体生物のように肉を揉み合っている。そこからぴちぴちと気泡が弾けるような音が聞こえた。オレはもうその視覚と音だけでいきそうだった。
あ、ああ、ああ。
ゆきの足の指が内側に折り曲がっては反り返った。ときおり左手がじれったそうに桜色の乳首をつねりあげる。そのたびにシーツの染みがジワっと大きくなった。オレはゆきがいく瞬間を目に焼きつけようと息を殺した。
だが、ゆきはいかなかった。
クライマックスを目前に突然オナニーを中断させ、呆気にとられているオレのまえでベッドから降りてしまったのである。そしてダンボールから新しい下着を出してはき、脱ぎ捨てたワンピースを羽織ってオレの手錠を外すと、入口のドアを指差しこういい放った。
「わざわざお越しいただいてすみません。でも、やっぱりわたし、この問題は自分で解決します。帰ってください!」
問答無用で部屋から追い出されたオレは、気がつくとフィルムを逆回転させたように帰りのバスの座席で揺られていた。
いったいあの部屋で起こったことはなんだったのだろう。
そもそもゆきはなんでこのオレを相手に選んだのだろう。
オレがバイブ製造業者というだけでは説明がつかない。
別れた男のことを語るときの饒舌さも奇妙といえば奇妙だった。
なにもわからない。
確かなことはただ一つ。
オレがすっかりゆきに魅入られているということだった。
少女のような天然美とそこに備わった異様なひだ。そのアンビバレンツなギャップがオレの劣情を揺さぶり続けていた。ゆきが美しければ美しいほどひだは醜く、そのひだが醜ければ醜いほどゆきは綺麗だった。理由はよくわからない。わからないが、頭の中でずっとゆきの大きな小陰唇がパタパタと蝶のように羽ばたいていた。もう一度、会いたい。あのひだを執拗にこねて、舐めて、はっきりした手ごたえを感じたかった。
あれから五日が過ぎたがゆきは駅の喫煙所にも姿をみせていない。
工場に出ても仕事などする気になれず、オレは日がなゆきの性器にジャストフィットしそうなおもちゃの試作品を作り続けた。何度かマンションにも出向いてみたが、部屋に気配はなく窓の明かりも消えたままだった。そんな夜はむしょうに煙草が欲しくなったが、それでもオレはまだ禁煙を守っていた。ゆきとは禁煙をきっかけに知り合った。だから、禁煙がゆきとの再会を期す願掛けになっていたのかもしれない。
その日は、昼過ぎから雨が降りだしていた。
オレの勤務態度をみかねた従業員で元ソープ嬢のミルクさんが、ついに切れた。
「ちょっと社長。明日までに納品しなきゃならないのよ。もっと気合入れて働いてよ。気合を!」
ゆきから工場に電話が入ったのは、その直後のことだった。
「これ、いったいどういうつもりですか?」
ゆきはオレを部屋に招き入れると、一通の茶封筒を突き出していった。
この女はよくよく素っ気ない衣服が好きらしい。このまえは生成りのワンピース。今日は上下ともに霜降りのジャージ姿だ。封筒を突き出した右手の袖口に血の点が飛び散っている。その血が雨に滲み、薄赤の斑点をいくつもつくっている。手の甲にも鋭い引っかき傷のようなものがあって、まだ乾き切っていない血が鈍く光っていた。
「大丈夫ですか。その傷?」
「傷のことなんか聞いてないわよ。これはなにって聞いてんの?」
なにもへったくれもない。昨日の夜、オレがひそかに届けた封筒だった。中にはオレのつくった極小の性玩具とオレが二日もかけて書いた手紙が入っている。
「こんなことしてくれって誰が頼んだ?」
ゆきはひどく怒っていた。そこまで怒るほどのことかと思ったが、怒った顔は綺麗だった。綺麗な女には逆らえなかった。
「いい歳をした中年男がなに? 読んであげましょうか?」
「いや、ちょっと待って」
オレが慌ててゆきの広げた手紙に手を伸ばすと、ゆきはサッとオレをかわして部屋を逃げ回った。
「返してください!」
オレはくり返しながらゆきを追った。今すぐ大気圏外に飛び出したかった。手紙には「男心」とか「手首の痛みを思い出し」とか「今宵も眠れず」とか「苦しくて」とか「切なく」とか「逢いたい」とか、昭和のムード歌謡で歌われそうな文言が並んでいるのだ。
「すみません。冗談だと思って忘れてください!」
冗談? 立ち止まり振り向いてゆきはいった。
「これ、冗談なの?」
「いや、冗談じゃないけど」
オレの受け答えはもう支離滅裂だった。
「ここに座って」
ゆきが犬の調教師のように床を指差すと、オレは即座に犬と化して行儀よくそこに坐った。ゆきはベッドに浅く腰掛け、封筒から小指の先程の丸いシリコンを取り出していった。
「わたしのために特別に作ったって書いてあるけど、どこが特別なの? 説明して」
「いやあ、みてわかりませんか?」
気を許しニヤけていったオレの頬にいきなりピシっと平手が飛んだ。オレは一瞬、なにが起こったのかわからず唖然とゆきをみつめた。
ゆきはこっちの鼓膜が切れそうなくらい鮮やかな滑舌でいった。
「説明してっていってんのよ。いちいち聞き返すんじゃないわよ」
ゆきの対応はどう考えても普通じゃない。だが、オレの心理状態も異常だった。そういう意味でオレたちはこのとき釣り合いが取れていた。
「これをどう使えっていうの?」
という質問に対しオレは待ってましたとばかりに熱弁で答えていた。
先日、あなたはオナニーの際、直接指でクリトリスに触れないとおっしゃいましたよね。なるほど拝見すると包皮が発達し過ぎてそれが困難であることがよくわかった。そこでわたしはこう考えたのです。カンガルーの母親が赤ん坊を育てるときそうするように、袋状の包皮の中に極小のローターをすべり込ませることができないかと。
「これがカンガルーの赤ちゃんってわけ?」
ゆきは掌の上のローターに目を凝らしていった。その目に不思議な光が宿っていた。
「わたし、こんなに大きな赤ちゃん、育てられるかしら」
「しかし、それより小さいローターは作れません。それが今わたしに作れる限界です」
ローターの構造はいたって簡単だ。モーターは携帯電話に使われている全長四ミリの電動モーター。それを薄いシリコンで包んである。バッテリーはクォーツの腕時計などに使用するリチウム電池で、シリコンに圧がかかると振動する仕組みになっている。
「試して欲しい?」
「もちろんです」
「だったら頼みなさいよ」
「よろしくお願いします」
「もっとちゃんと頼みなさいよ」
オレの反応は素早かった。
「わたしの作ったおもちゃを試してください。お願いします。この通りです!」
もう床に額をこすりつけて懇願していた。わずらわしい自尊心を捨てて土下座すると背中に不思議な快感が通り抜けた。これがマゾヒズムってやつなんだろうか。
「仕方がないわね」
ゆきは霜降りジャージの下をショーツと一緒に脱ぎ捨て、オレに向かって大きく足を開いた。吸い込まれるようにオレの上体も前傾した。
「動かないで」
ゆきの指がひだをひっくり返すようにしてローターを当てる位置を探し始める。入り組んでいるせいで差し込む場所が中々見つからないようだった。オレは指の動きを凝視しながら、そこです、と叫んだ。
「入るかな?」
「わかりません」
くっと目をつむったゆきが重なり合った包皮の隙間に小さな楕円のシリコンを潜り込ませる。透明なピンク色のシリコンがゆっくりと皮の中に納まってゆく。よじれ合った包皮の縮緬皺がみるみる伸びてゆき、やがてそこがポコっと膨れて光沢を放った。なんだか亀裂の間から小さなペニスが生まれたみたいだった。
「クリトリスに直接当たってますか」
「当たってるけど」
その感触が意外らしくきょとんとしてゆきはいった。
「どうすれば振動するの?」
「ちょっと強めに押してみてください」
ゆきは最初は恐る恐る、次第に強く、包皮のふくらみを押した。と鈍い振動音とともにゆきの脚がビクビクっと跳ね、あ、と短い悲鳴を上げてローターから指を離した。
「どうですか?」
ゆきは振動に戸惑ったように、ピタッと膝を閉じたまま動かない。
「どうですか?」
「よくわからない」
我に返ったようにゆきはいった。
「わたしには刺激が強すぎるのかも」
「もう一度試してみてください」
自分のおもちゃの性能を確かめたくてそういうと、ゆきはオレに目を据えたままゆっくりと首を振った。
もう一度、というオレを無視して包皮からローターを押し出して枕元に置き、窓の向こうをみつめたまま動かなくなった。
ふいに雨足が強くなった。
雨音に背中を押されたようにゆきがジャージの上着を脱ぎ始める。それを床に投げ落とすと、そのままスーッと身体を後に倒し、両手で膝を抱えオレに向かって思いっきり股間を広げ、ささやくようにいった。
舐めて。
オレの目のまえで、長いひだが外性器から垂れ落ちている。複雑な起伏が濡れて光っていた。オレは魔法にかかったみたいに手を伸ばしてゆきの白いふとももをそっと撫でた。おびえたようにゆきの身体がピクンと震えた。うちももに唇を寄せ、薄い皮膚から透けた静脈をなぞった。ももから恥丘にかけてザっと鳥肌がたち、ゆきが窮屈そうに身をよじった。オレはじれったさをかき寄せるように舌を使い、ゆっくりと中心へと近づいていった。みるとすでにひだの合わせ目から愛液が滲み、アヌスに向かって細く伝い落ちている。オレは愛液をすくい取るようにアヌスからひだに向かって舌を這わせた。たっぷりしたゆきのひだを口に含む。ひだは軽い吸引で喉まで到達しそうなくらい頼りなかった。
吸わないで。
さっきとは打って変わったか細い声でゆきはいった。
伸びちゃいそうで、いやなの。
ひだの溝を舌でなぞる。あ。ゆきの手がシーツをつかんだ。腹筋が波のように上下している。その動きがオレを急かしていた。ああ。滲みだす愛液は次第に量を増した。愛液は甘くはなかった。ほんの少しだがえぐみがあった。舌で丁寧に全体を濡らす。
あ。ああ、気持ちいい。
こんな小さなスペースなのに、濡らすのにやけに時間がかかった。舌の付け根が痺れてくる。おまえを舐めるのはたいへんだ。ゆきのまえの男の言葉を思い出した。ゆきはオレの頭髪をわし摑み、あ、ああ、ああ、焦れたように自分から股間を上下に揺すった。オレは舌先を細めて、重なり合ったブ厚い包皮の隙間に潜り込ませた。
あ。
その瞬間アヌスがキュッと収縮するのがわかった。あ、ああ。喘ぎ声も一皮剥けたように鮮明になった。あんなにクリトリスが大きくみえたのは、やはり不自然にひだが重なり合っていたせいだった。舌の裏側に感じる実際のクリトリスはとても小さい。小さいが、敏感だった。窮屈な包皮の中でわずかに舌を動かしただけで、あ、あ、あ、とゆきはアヌスをきゅうきゅう絞ってオレの頭髪をかきむしった。頭皮の痛みが心地よかった。
舌先の感触はもうヌルヌルし過ぎて曖昧だった。かろうじてわかる小さなしこりをオレは舐めた。愛液でぐっしょりと濡れたシーツがマットに張り付き、マットの青い格子柄が透けてみえた。ああ、ああ。ゆきはシーツを爪で引っかきながら尻をずらし身体を反転させると、
「わたしも舐めてあげる」
慌しくオレのベルトを解いてジッパーを下げ、舐めさせて、と作業ズボンを下ろした。
急に手持ち無沙汰になったオレが半身を起こしたとき、ペニスがヌラリとゆきの口に吸い込まれた。
ゆきの唇があんまり綺麗なピンク色をしているせいで、オレのペニスがやけに黒ずみ穢れてみえる。それを厭わずじっと目をつむりフェラチオするゆきの顔には、不思議な厳粛さが漂っていた。オレは自分がひどく罰当たりな気がしてきてますますペニスが硬くなった。舌はあったかく、柔らかく、なめらかだった。フェラチオは愚直なまでに素直で、一心で、必死だった。
オレはむしょうにゆきが愛おしくなり、ゆきを抱き上げて唇を吸った。
オレとゆきはもう唇も舌も唾液と愛液とバルトリン氏液でヌルヌルだった。オレはさらにぬかるんだひだを分けて先を当てた。硬いペニスは重い抵抗を感じながら、あ、ああ、吐息とともにゆきに埋まった。
不思議な感触だった。
長いひだを巻き込んでいるのかもしれない。根元はプヨプヨしたクッションでこすられ、亀頭は程よい圧によって絞めつけられている。腰を動かすたびに愛液があふれてピチャピチャと音がたった。ゆきの睫毛がみるみる切なげに歪んでゆく。
あ、ああ。ねえ、いきたい。いくまで、して。
オレの背中の肉をギュウッと握りしめてゆきは喘いだ。オレはすぐにでもいきそうだった。だが、耐えに耐えて腰を使った。どうしてもこの女に応えたかった。そのとき視界に試作品のあのローターが飛び込んできた。オレがローターを取ると、ゆきがそれを奪い、自分で装着した。
恥骨のあたりにローターのしこりを感じた。恥骨でそれを押した。ブーンと鈍い振動が恥骨に響いた。
あ、ああ。いい。いい。もっと。もっと、して。
ゆきがオレの首にしがみついてせがむ。オレはローターを押しつぶすようにしてゆきの小さなクリトリスに振動を送った。ブーンブーンと羽虫が羽ばたくようにローターが唸った。
いっちゃう。いっちゃう。
ゆきは動きをぎくしゃくさせて叫んだ。
一緒よ。一緒にきて。
顔をパアっと紅潮させたゆきが、あ、ああっ、と全身を硬直させた。のけぞらせた首に血管が浮かぶ。ゆきの口元から一筋よだれが垂れ落ちたとき、オレの尿道をすごい勢いで精液が突っ走った。
荒い息はいつの間にか雨音と入れ替わっていた。
体液でできたシーツの染みまで雨のつくった水溜りのようにみえる。すぐ隣でスポンという音がし、懐かしい香りが鼻先をよぎった。
みるとゆきが両切りのピースに火をつけた直後だった。オレは起き上がり、当たりまえのように手を伸ばしてゆきから煙草を奪った。そして、吸った。火種がパチパチとかすかな音をたてた。頭の中で細かい火花が散る。クラクラした。その痺れが治まるの待ってオレはまた煙を肺に送った。
「禁煙、お終い?」
頬にベッタリと張りついた髪をかき上げ、ゆきはオレに灰皿を差し出しいった。
オレは返事をするかわりに苦笑して灰皿に灰を落とした。そのとき、ゆきの手の甲の傷が妙に生々しくオレの目に映った。
するとポツリとゆきがいった。
「まえの彼も禁煙を始めたの。突然」
ゆきは窓の向こうの鉛色の空をみながら淡々と続けた。
両切りのピースが煙草の中で一番うまいなんていって、わたしを煙草好きにさせといてさ。子供が生まれたからって、自分だけ禁煙するなんて、そんなのずるいよ。
そういうとオレをみて笑った。哀しげな笑顔だった。
ゆきがこのときなにをいいたかったのか、結局確かめることはできなかった。その直後にかかってきたミルクさんからの怒涛の呼び出し電話によって、オレが工場に引き戻されてしまったからだ。
納品が終わるまで十四時間ぶっ通しに働き、翌日、再びゆきのマンションを訪れると、廊下に佇んでいた冴えないスーツ姿の中年男がボソリとオレにいった。
「ゆきなら、もう引っ越しましたよ」
男はすでに管理人から、ゆきがその日の午後、この部屋から出て行ったことを確認したらしい。
どういうことですか、そりゃあ、呆然と口走ったオレに男は逆に質問してきた。
「夜泣き屋さんというのはあなたですか?」
怪訝に頷くと男は、
「ドアにこんなものが貼ってありました」
と手にした新聞広告を差し出しいった。
広告の裏には、「ありがとう、夜泣き屋さん」とマジックで書かれたゆきの走り書きがあった。
「……失礼ですが、ゆきとはどういう関係だったんでしょう?」
咄嗟にどう説明していいかわからず、彼女から悩み事を相談されていたのだ、と答えると男は黙り込んだ。どうやら思い当たるふしがあったらしい。
このあとオレは近くの公園で男から意外な告白を聞くことになった。
ゆきがくり返し話していた「前の彼氏」とは、他でもない、なんと頭の禿げかかったこの中年男だった。ここに越してきた理由もこの男から逃げるためではなかった。逆だったのだ。
「妻に子供ができまして、ようやくできた子供だったので、妻を取るかゆきを取るか、悩みに悩んだ末……わたしはゆきに泣いてもらうことにしたのです」
勤め先の上司だったこの男から一方的に関係を清算され、結局、会社を辞めることになったゆきは、男の住むこの街に越してきてストーカー行為をくり返すようになった。そして昨日の昼過ぎ、男の自宅に乗り込もうとして男の妻から包丁で切りつけられたのだという。
「たいした怪我じゃないことはわかってましたが心配になって……」
彼女はどうしたら納得してくれるでしょうか、そういうと男は口をつぐみ、オレの手元に視線を落とした。
オレはピースの缶から煙草を抜き取りながらいった。
「禁煙なさったそうですね?」
「子供の身体に悪いですから」
「ここに子供はいない。一本いかがですか?」
オレが煙草を差し出すと、男は意外にあっさりとそれを取って口にくわえた。
オレ達は並んでベンチに坐り、ゆっくりと煙草を吸った。
間が抜けた溜息みたいな煙がオレたちを包むと、ふいに焼き鳥屋でオレを諌めたときのゆきの顔がよみがえってきた。あのときゆきはいった。
なぜ裏切ったの? せっかく仲間になれたのに、なぜ煙草をやめたんですか?
オレは煙草の灰を落としながら男にいった。
「じつはわたし、彼女とは禁煙がきっかけで知り合ったんです」
ゆきがなぜオレを選んだのか。少しだけその理由がわかった気がした。
ゆきはこの男とオレを重ね合わせ、オレの禁煙を断念させようとしていただけだったのではないか。そのためにオレを誘い、オレに秘密をさらけだしてみせたのではないか。ストーカーなんかやめたくて。でも、どうすることもできなくて。そのもどかしさと屈折をオレにぶつけていたのではないか。
「ご覧の通りわたしの禁煙は終わった。きっと彼女はもうあなたのまえにもわたしのまえにも現れない。この煙草の煙みたいにね」
オレは煙草を棄て二本目に火をつけながら思った。
オレはもう二度とこの煙草をやめられないだろう。そして煙草を吸うたびゆきの祈るようなフェラチオを思い出すことになるだろう。
「あのう、禁煙が今度のこととどう関係しているんでしょうか?」
ゆきはオレの作ったあのおもちゃを荷物に詰めてくれたのだろうか。オレは苦い煙を肺に送りながら、そのことばかりが気になっていた。
〔2008,1月 WEBNON掲載〕